今4歳の息子が2歳だった頃の話。保育園には、家庭と園を往復する1冊のお便り帳(地域によっては「連絡帳」)があった。朝に親が書き、夕方に先生が書く。親の記入欄は2〜3行程度。
これを書きたくて、書きたくて、仕方がなかった。
きっかけは、パパとしての使命感と言うより、「記録することの大切さを噛み締めた経験」だった。当時、会社の社史制作に携わる機会があり、日々の小さな積み重ねが10年後20年後にどれほど価値を持つかを思い知ったからだ。
——この熱量を、息子の保育園お便り帳に全振りすることにした。
結果として、自分のボキャブラリーの貧しさを露呈することになった。
こんな方に読んでほしい
・保育園・幼稚園のお便り帳を書いているパパ、ママ
・日記や子供の成長記録を続けたいが、続かない方
・妻に育児情報を丸投げしがちなパパ
・「記録したいのに中身がない」あるあるに共感したい方
最初は順調だった
私は張り切っていた。
「昨晩はご飯をたくさん食べました」
「最近ボキャブラリーが増えてきました」
「朝は『パパ見て!』と何度も呼ばれました」
2歳児の日常など、見ようと思えば発見の宝庫である。夜にメモを取り、朝にお便り帳に書き写した。先生からは「いつも詳細にありがとうございます」と朱書きの返信がもらえる。順調だった。
だが、仕事が忙しい時期に差し掛かったあたりから雲行きが怪しくなった。
帰宅すると息子はもう寝ている問題
帰宅が20時を回る日が続いた。2歳児の就寝時間は20時前後。つまり、家に着いた時点で「今日の息子の様子」は原則として観測不可能になった。
朝に書くお便り帳のネタが、家に帰った時点でもう手に入らない。これは由々しき事態だった。
そこで私は、我が家の広報部長(妻)からの事後報告を頼りに書くという運用に切り替えた。
妻「今日は『消防車』を『ぼうそうしゃ』って言ってたよ」
私「(お便り帳に記入)昨日は『消防車』を見て『ぼうそうしゃ』と言っていました」
妻「今日ブロッコリー食べたよ。好きみたい。」
私「(お便り帳に記入)昨日はブロッコリーを食べました。お父さんより好き嫌いが無さそうです」
書いていて気づいた。私、妻の情報をコピペしているだけだ。
残業パパの”二次情報依存”問題
ここで診断士的に一歩引いて考えてみる。
企業経営で言えば、これは「現場情報と経営判断のリードタイム」問題に似ている。現場(息子)で起きていることを、中間管理職(妻)が要約して、経営陣(私)に共有する。私はそれを対外向けの報告書(お便り帳)に転記している。
この構造の何が問題か。「一次情報に触れていない人間の、解像度の低さ」である。
妻が「今日ブロッコリーを食べた」と教えてくれたとき、その背景には「最初は嫌がっていたけど一口食べるとバクバク行けた」とか「お友達の真似をした」とか、文字にしない情報が大量にある。私はそれを落として書いている。
先生から返ってくる朱書きのコメントも、心なしか短くなってきた気がする。気のせいであってほしい。
お便り帳とブログ、同じ記録なのに扱いが真逆である
ここでふと気づく。お便り帳に書く「今日は『ボウソウシャ』と言いました」と、このブログ記事は、どちらも同じ息子の記録である。だが扱いは真逆だ。
お便り帳は先生しか読まず、朱書きの返信とともに翌日には役目を終える。儚い。一方このブログ記事は、ネット上で半永久的に晒され、将来息子が検索した時に掘り起こされる。同じ記録なのに、片方は1日で消え、片方は消えない。
冷静に考えて、私が全力で愛情を注ぐべきは前者である。後者は将来息子から訴えられる可能性すらある。
記録することの意味
すぐに役目を終えるお便り帳も、プライベートを切り売りするYouTuberさながらブログに息子を登場させるのも、書き続けるのには私なりの理由がある。
社史制作で痛感したのは、「後から見返したとき、記録は必ず宝になる」ということだった。当時の書き手は「こんな雑な記録に意味があるのか」と思っていただろうが、10年後にそれを読む側からすれば、雑だろうが簡潔だろうが、記録があるだけで時代の空気が立ち上がってくる。
だから、私がお便り帳に「今日は『ボウソウシャ』と言いました」と書いた一行も、20年後の息子が見たら何かを感じるかもしれない。「お父さん、俺が寝た後にこれ書いてたの…?」と。
いつか息子が大きくなった時、お便り帳やこのブログを酒のツマミに、酒を酌み交わしたいものである。(私が息子なら絶対に嫌だ。)


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